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哲学のお話

突然だが、私は哲学が好きである。

 

誰か一人の思想に縛られる訳ではなく、生きる上で物事の見方・視点を増やすためのひとつのツールとして学んでいる。

 

きっかけとしては、精神的に病んでいたときにこの現状をどうしても変えたいとすがる思いでいろいろ本を読み漁った時期に出会ったものだ。

 

もともと幼い頃から「この身体がなくなった時にこの世界を認識しているこの意識はいったい何なのだ。私はいったい何者なのだ…?」と悩み、『生』というものに頭を抱えていたややクレイジーな子ども時代を過ごしていたのだが、この時期をきっかけに深く触れることになった。

 

当時は、精神世界、心理学、論語、聖書、物理学、哲学…本当にたくさんの本を読んだ。

 

勢いで相対性理論も手を出したが、「(^q^)???」となり断念したのは内緒である。

 

 

話は戻るが、その中でも哲学は立ち直ってからも学ぶことは多い。

 

特にニーチェは自分の心の師だと思うくらい、考え方や世の捉え方について一番共感できる。

 

近頃、彼の著書『善悪の彼岸』の中の次の文章について深く考えることがある。

 

あくまで私の解釈であるということは承知おき願う。

 

 

【怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだ。】

 

 

この本を出した頃のニーチェは善悪を超越しており、その過程を書いた著書である。

 

本当に善悪はあるのか?その判断をしているのは単なる自分のエゴではないか?

 

そもそもその判断は本当に己のものなのか?判断に間違いはないと言えるのか?

 

本当に闘う必要はあるのか?

 

そう語りかけているようである。

 

最近よく目に付く「歪んだ正義」にも言えるような気がしている。

 

 

また、深淵というのは闇や自分の心普段隠されている部分、心理学的に言えば「集合的無意識」とも言えるかもしれない。

 

私は、底なしの地獄だとも捉えている。

 

そこにあるのは虚無であり、絶望かもしれない。

 

映画を見ている感覚でいても、その深淵を覗いている者を「捕食」してしまうほど集合的無意識というのは非常に強力である。

 

いつの間にか呑み込まれ、「正義」という仮面を被った怪物になることのないよう気をつけろというニーチェからのアドバイスだと思っている。

 

 

私は物事を見るときに先入観を持たず凪の状態で捉えるように心がけている。

 

もちろん、仕事をする上でもそうだ。

 

人があっての場合、様々な事情があるかもしれない。

 

言動において私はきちんと相手の真意を読み取れているか。

 

その出来事の背景は?

 

視点を変えるだけで見える世界がガラリと変わってしまうこともある。

 

そして出てきた新たな視点にもジャッジはしない。

 

常に中庸に在れるよう努力している。

 

 

ちなみに、ここ最近は宮沢賢治の春の修羅を読み直して「わたし」とは存在なのか、現象なのか、もずっと自分への宿題である。