言葉には度々悩まされる。
こういう事かな?と相手に確認をした上で話を進めても、齟齬が生じる時があるのだ。
特に今は、法律に携わる立場でもあり、『言葉選び』というのは大変気を遣う。
特に契約書や合意書など作成する場合には、ちょっとした言葉の、単にニュアンスの違いでも完全に納得がいく文章が出来るまで調べ尽くし脳汁最後の一滴まで絞り出す程に考えてしまう。
些細な一文で揉め事が起こらないようにするため。
誤解を恐れずに言えば、言葉というのはそれ自体には意味があるわけではなく、各人が各々に意味を持たせている。
育ってきた環境や学んできた事柄、付き合う人間が違えば、ある言葉による印象やイメージは人によって全く異なる。
それ故、言葉による認識のずれが起こることや、複数人に同じ言葉を向けても反応が違うのは、ごくごく当たり前のことではある。
言葉の端に意味を含ませる。隠す文化である日本人の奥ゆかしき性分故なのだろうか。
乱暴な言い方をすれば「分かるでしょ?察せよ」という空気も含みつつある。
これはプライベートの人間関係、それどころか家族同士でさえ起こりえる。
他人であれば更に気を遣う。
例え気心知れた友人と会話をしていても、後から、あの時のあの流れであの言葉ではなかったな…と、気になって眠れなくなるときがある。(皮肉等を言ったわけではなく、本当に普通の会話でも)
気分を害さなかっただろうか…、もっと他に適切な言葉があったのではないか…。
そのように、脳内臨時くみ子会議が頻繁に行われる。
勿論その場で、ねぇねぇどう思った?など相手に確認できるわけでもなく、精神的に疲弊して終わるのだ。
発する側の立場だけでなく、受け取る側の立場であっても相当考える時があるし、それは必要だと思う。
そのまま受け取れば、自分にとっては心外だ!と感じる言葉でも、相手はその言葉以外に適切な言葉を知らないのかもしれない。
相手はその言葉に、私自身が持ってる意味の他、もっと別の意味を持たせているのかもしれない。
最大限に私の事を想って発した言葉かもしれない。
第一に、私自身、相手がとった言動を悪く受け取りたくないのだ。
だからと言って裏を読み過ぎると、そうでもなかったりもする。
仮に悪意を持って向けられた言葉だとしたら、それに対しては鈍感になりスルーするのが一番なのかもしれない。
釈迦が言っていた。
「今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを、少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことは、すべて、あなたが受け取ることになるんだよ。」と。
いや、待てよ。
そもそも悪口を言われたと思う時点で自意識過剰なのではないのか?
自分を高みに上げ過ぎてはいないか?
私はそんな嫌味を言われるほどすごい人間はないだろ?
そこまで思考が発展する。
そして今日も私は言葉の重要さと取扱いに頭を抱えるのだ。
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